2019/07/10

一生を体重と戦い続けたQBジャレッド・ロレンゼン

7月3日、かつてニューヨーク・ジャイアンツでイーライ・マニングのバックアップを務め、スーパーボウル優勝の経験もあるクォーターバック、ジャレッド・ロレンゼンさんの死去が報道されました。享年38歳。

クォーターバックとしては規格外の大柄で、ヘフティ・レフティ(でぶちんのサウスポー)、ピルスベリー社のドウボーイをもじってピルスベリー・スローボーイなどと呼ばれていました。

NFLを去ってからはインドアリーグでフットボールを続け、どの選手よりも大きな体でスクランブルする姿が話題になったこともあります。体重とは小さい頃からずっと格闘してきました。体重計に乗ることを何年も拒み続けてきたそうです。怪我が原因でフットボールをやめた33歳から、また体重は増え続けました。心臓や腎臓に障害が出て、病院で測ってみると254キロ。

最近は、自分の減量への挑戦をオンラインビデオで公開していました。自分の姿を見て健康や肥満について考えてほしい。肥満に悩む人達の力になれば。15歳の娘さん、8歳の息子さんのためにも変わらなければと、語っていたその矢先の出来事でした。

ロレンゼンさんの体重との戦いを綴った2014年の記事を紹介します。





1981年2月14日にジャレッド・ロレンゼンは生まれました。出生時の体重は5.98キロ。3人の兄弟はみんな4.5キロ以上で生まれていますが、長男の彼は特大でした。

7ヶ月で歩きはじめると、すぐにボールを投げるのが大好きになりました。ひとりで床に寝転がり、何時間もボールを宙に放って遊ぶことがあったそうです。

マカロニチーズ、魚フライ、チキンパイ、ステーキなど冷凍食品が食卓に上ることが多く、体重はいつも平均以上。少年フットボールリーグでは2歳ごとに階級が分かれますが、2年目の体重測定が近づくと、Tシャツを着込み、スエットパンツをはき、ランニングして減量に務めるのが常でした。

走ることはもともと大嫌い。4歳のときのサッカーの試合では、もう走りたくないとグラウンドに座り込んで泣いたことを母親はよく覚えています。

15歳の時に両親が離婚。父親と一緒の時にはピザや中華料理の出前を取り、毎日2リットル入りの炭酸飲料を飲み干しました。デザートは2人でそれぞれお菓子の箱を抱えるという生活。「食べることが親子の絆だった」と語っていました。

高校時代の体重は240パウンド(109キロ)。オフェンシブラインマンが190パウンド(86キロ)のチームで奇妙に見えたことは間違いありません。ケンタッキー州大会で優勝、45タッチダウンを記録したQBでしたが、大学のスカウトは、ディフェンシブラインマンまたはオフェンシブラインマン候補としての彼に興味を示していたそうです。

高校3年生の時に、ケンタッキー州の最優秀クォーターバックに贈られるジョニー・ユニタス賞を受賞。授賞式でユニタス氏から「キミはクォーターバックとして大きすぎるな。そんなに大きくては、どうにもならないと思うよ」との言葉をもらいました。

「その言葉はずっと忘れられない」とロレンゼンさん。「みんなそう言ってたけどね。デカすぎるって」

大学1年生の時には、学生トレーナーが一緒に住み込んでダイエットに挑戦しましたが、結局トレーナーのほうが10パウンド(5キロ)太ってしまうはめに。

シーズン前の体重は308パウンド(140キロ)。268パウンド(120キロ)に落とすまでは出場させないとコーチに通告されました。フットボールの練習に加えて毎朝2時間のラケットボール、夜は水泳に励みました。現在は禁止されているダイエット薬も使用し、やっと268.8パウンドまで落としたものの、合格するやいなやチョコレートに手を出し、すぐにリバウンドするという状態でした。

アスリートとしてかなり体重オーバーだったにも関わらず、肩はめっぽう強く、フィールドの中央で片膝をつき、ゴールポストを超えるボールを投げることもできました。レーダーガンで投球速度を測ると、カレッジのトップQBが時速52〜54マイルのところ、彼の場合はあっさり時速64マイルを記録したことも。

NFLを目指してエージェントと契約し、ベン・ロスリスバーガーを含むドラフト候補生との合同練習にも参加しました。「意欲はあった。けれど、減量ができなかったんだ。できなかったのか、しなかったのか」と当時のエージェント。

ドラフト全体1位でイーライ・マニングが指名された2014年、ロレンゼンさんはドラフト外でニューヨーク・ジャイアンツと契約します。しかし、ロースターに残ることは無理だと決め込み、トレーニングキャンプには不参加。家族は憤慨しました。

翌年に再びジャイアンツの招待を受けると、高校からの付き合いである奥さんに「行かなければ別れる」と告げられ、車を12時間運転しニューヨーク州のキャンプ地へ向かいました。すでに子どもがいた彼は、ホームシックでその間ずっと泣き続けたといいます。

ジャイアンツには3年在籍し、イーライ・マニングのバックアップを務めました。2007年シーズンは16戦全勝のニューイングランド・ペイトリオッツをスーパーボウルで破り優勝。その時の紙吹雪を、ロレンゼンさんは袋に入れて持っています。DEマイケル・ストラハンがお祝いにとチームメイト全員に配ったジョニー・ウォーカーの青ラベルは箱のまま、今でも飲まずに保存しています。

当時ヘッドコーチだったトム・コフリンさんは各選手に体重制限を規定し、1パウンド(0.5キロ)超過するごとに400ドル(4万円)の罰金が課されていました。ロレンゼンさんのリミットは292パウンド(132キロ)。体重測定は金曜日だったので、木曜日は絶食。金曜朝にはサウナ。トレーニングウェアを何枚も着込んでエクササイズマシンで汗を流し、やっとパスしていました。

「こんなことを2週間もやってたら、普通の人は食事にだって気をつけるようになるはずだ。だけど僕は、体重計を降りるとすぐハムとチーズのオムレツなんか食べてたんだ」

NFLでの最後の試合となったスーパーボウルの後、ジャイアンツを解雇され、インディアナポリス・コルツに移籍しましたが、シーズン前にリリース。最後の体重測定では303パウンド(137キロ)でした。

ケンタッキーに戻り、一時アリーナフットボールに参加したあと、ショッピングモールのマネージャーとして働きました。友人とレストランも開店しました。しかし自分の人生が見えませんでした。

「フットボールは終わった。だけど、今までそれしか知らないんだ。これから一体何を?」

地元のインドアフットボールリーグのGMに就任し、クォーターバックがいなかったので自分が試合に出場しました。リーグMVPとなり、1試合200ドルの報酬でプレイしていました。

高校時代から18年一緒だった奥さんとは離婚しました。体重について言い争いをすることに両方が疲れ果てました。「彼は本当に優しくて良い人なの」とタマラさんは語ります。

「いろんな工夫をしてみたわ。ズッキーニやかぼちゃをラザーニャに入れてみたり。だけど、彼は緑色のものなんか本当は好きじゃないのよ。グリーンピース以外はね」

「怒鳴ったりもした。静かになだめたりもした。『子どもたちのために』っていうのも試してみたわ。大人になることを学んでよ。そう話した時もあります」

プレイブックを理解していても、実戦で成功させることは難しい。どうすればいいのか頭の中では分かっていても、なぜか行動が伴わない。誰でもそんなことがひとつやふたつはあるのではないでしょうか。

タバコや酒やドラッグなら思い切って一切禁止ができても、食事は毎日取らなければ生きられない。欠点なんて誰だって人に見せたくないのに、大きな体はどこに行っても一目瞭然。

改札口を通れるだろうか。プラスチックの椅子が壊れないだろうか。レストランでテーブルの間をすり抜けられるだろうか。お尻が誰かにぶつからないだろうか。空港のラウンジでは「この人の隣になりたくないな」とみんなが思っているに違いない。

そんな毎日。

人目を忍んでいる暮らすこともできたのに、ロレンゼンさんは自分の不甲斐なさ、負け続けた戦いを私たちに見せてくれました。
奇妙な言い方かもしれないけれど
ささやかな方法で
ジャレッド・ロレンゼンは私の命を救ってくれた 
彼が他界したことで深い悲しみを感じている
私がやっと自分を変えた年よりも彼は若かった
あと数年で彼もそうできたかもしれない
時間がなかっただけ
同じことを起こらせてはいけないよ
亡くなった日のツイッターに、こんな書き込みもありました。NFLの花形クォーターバックではありませんでしたが、ジャレッド・ロレンゼンさんも彼にしかできないやり方でヒーローだったのではないでしょうか。

そう思いませんか?

スーパーボウルでの正念場、タックルをかわしてミラクルパスを放ったイーライ・マニングですが、タックルから逃げるドリルを毎日練習していました。練習でタックルする役目だったのがロレンゼンさん。「いやもう、彼は一枚上をいってたから」とイーライ・マニング。

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