2017/03/26

コンカッションダイアリー:脳震盪とCTEに苦しんだ高校生の記録

頭部に激しい衝撃を何度も受けると、脳に決定的な傷がつき、様々な障害を引き起こす。例えば、感情の起伏が激しくなる。鬱になる。物忘れをする。激しい頭痛が続く。そうした脳障害をCTEと呼びます。

プロフットボール選手が引退後にCTEを発症したという話は、今までに何件も聞きました。でも今回は、高校でフットボールをしていた選手がCTEに苦しみ、24歳で自らの命を絶ったという話です。今年1月、雑誌GQに掲載されました。

「頼む!僕のコンピューターを見てくれ。僕の話を印刷して皆に知らせてほしい。最後の願いを叶えてくれ。コンピューターのパスワードはzacman」

という走り書きをベッドの上に残したザック・イースター。コンピューターには「コンカッション:沈黙の闘い」と題した文書39ページが残っていました。死後はこれを公表してほしい、自分の脳はコンカッション財団の研究に寄付してほしい、という遺言も。



「僕は小学校3年の時からフットボールを始めた。兄がチームに入っていたし、父がコーチをしていた。ラインバッカーとフルバックのポジションをずっとしてきた。僕が一番激しいヒットをするラインバッカーとして知られていたと思う」

「この頃から、僕は頭を武器としてプレイすることを学んだ。どのプレイでも、ずっと頭を低く構えてプレイしてきた。僕は他の選手に比べて背が低かったが、頭を下げてぶつかれば、戦いに勝てた。そうすれば、コーチや選手からも注目された。

今思い返してみると、練習の時にも頭痛があった。だけど、コーチや友達には、タフなハードヒッターだと評判だった。そう言われるのが嬉しくて、練習や試合で頭痛がするなんて言いたくなかったんだ」

「6年生の時には、ゴリゴリ走り抜けるフルバック、ランニングバックになった。僕はチビで太めだった。だけど、ボールを持ったらラインバッカーを押しのけて走った」

「僕は父に証明したかった。兄のようにフットボールができるところを見せたかったんだ。校長や先生に、どうして兄みたいな良い生徒じゃないのかと言われることに嫌気がさしていた」

「父は恐ろしくタフなフットボールコーチで、イースター家の者は、いつ、どんな時でも鋼のように強靭でなければならなかった。弱みを見せるな。怪我をしても試合から降りるな」

「僕の脳震盪は、父のためだったのかもしれない。父に認めてもらって、自分がタフだと思いたかった。今はすべて後悔している。スポーツなんかしなければよかった」

ザック・イースター最後の試合となったのは、2009年、高校3年生の10月。8月、9月にも脳震盪を経験していました。9月の脳震盪の後は、ザックが寄り目になっていたとチームメイトが語っています。「医者に診てもらったが、症状は全部ウソをついた」と日記には記していました。

「正直に言うと、激しい頭痛が毎日続いていた。吐き気、めまいもずっと。だけど、僕はタフだ、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。吐き気がして汗が出て、教室を退室したこともあった。この頃から鬱病になったかもしれない。故障で練習を休むなんて恥ずかしい」

トレーナーの許可を得て出場した試合でしたが、第3クォーターの衝突で脳震盪。チームメートに引きずられてベンチに戻って来た彼は、ヘルメットを脱ぐと頭を下げて泣き出しました。頭はガンガン鳴っていましたが、救急処置をほどこすような症状はありませんでした。

「最後の脳震盪を機に何かが変わった。鬱がひどくなり、不安障害もでてきた。感情がコントロールできない。理由もないのに人に当り散らした」

大学に進学したものの、後遺症はひどくなるばかり。頭の中では雷が鳴っているよう。車を運転中、どこを走っているかを忘れる。買い物に行った店で、何を買いに来たのか思い出せない。幻聴が聞こえる。ルームメイトにはアルツハイマーになったんじゃないかとからかわれる。不安から、ザックは処方薬、酒、ドラッグを乱用するようになります。

「正気でいるためにドラッグに頼りすぎている。止めなきゃいけないけれど、同時にやけっぱちにもなる。自分の将来が怖くて落ち込む。ネットでCTEの情報を見つけた。もう二度と見ない」

就職もしましたが、商談中に何を話しているか分からなくる。ろれつが回らなくなる。最後の試合から6年経って、ザックは、診断を受けた5つの脳震盪と、頭を武器として使ったことによる多数の打撲が、症状の原因だと確信します。

医者の診断を仰げば、多分CTEだろうという答え。言語療法士に会い、セラピーにも通いましたが、精神科医には「最後は文無し、ホームレスになって精神病院に入るだろう」と告げられました。

とうとう2015年6月、24歳の誕生日に、ザックは今まで隠してきたCTEとの闘いを両親に告白します。唖然とする家族。NFL選手がCTEを患うというニュースを見ても、この時まで父親は本気にしていませんでした。

2015年11月には、1度目の自殺未遂。銃を持って湖畔にいるところを父親と警察に保護されます。

クリスマス後には、カリフォルニアにあるアルコール依存症と精神病施設に入院することになっていたザックですが、そんなことをしてもしょうがないと、乗り気ではありませんでした。

そして12月19日の午前12時24分。今までの感謝を伝える不吉なメッセージが、ザックのガールフレンドの携帯に届きます。ザックの兄が実家に連絡し、父親が部屋に行ってみると、殴り書きのメッセージがベッドの上に散らばっていました。

父親がザックの12歳の誕生日にプレゼントしたショットガンがない。弾丸も。母親の車も消えている。

父親が湖に直行すると、そこにはもう警察が。ザックは駐車場で自分の胸を打ち抜いて、亡くなっていました。

4日後の葬式に出席し、高校のフットボールコーチは自分に問いかけます。「これは、私の責任なのか?」と。

コーチもスタッフも、正しいタックル法を教えてきた。しかし、攻撃的であることを止めさせようとしたことがあっただろうか。どちらかといえば奨励してきた。ザックはその典型だった。

コーチ自身、高校時代には、親友がヒットを受けて脳障害を患った。車椅子の生活を送り、やがては亡くなった。2008年の練習中には、ラインバッカーの生徒がキックリターンの際にヒットを受けて頭部を打撲した。意識不明になって救急車に乗せられたが、その時、ザックはフィールドにいたはずだ。こん睡状態が3週間続いて、そのあとリハビリ施設に入院した。完全には回復できず、23歳の今でも両親と一緒に住み、依存症に苦しんでいる。

この二つは事故かもしれない。だがザックの場合は?

「棺の中に横たわる彼を見て、思わないわけにはいかない。こんなことは、もうたくさんだと」

「私は両方見てきた。フットボールの喜び、大勝利の瞬間。しかし、葬式にも参列してきた。フットボールは、する価値のあることなのだろうか?そう思ったことは何回もある」

そうコーチは語っています。

ザックは家族に指示を残していました。自分の文書をフェイスブックに載せてくれ。そしてCTEのことを世間に広めてほしい。みんなに真実を知ってほしい。

ザックの脳は、映画「コンカッション」のモデルとなったオマル医師のところへ送られる予定です。家族は、CTE Hopeという非営利団体を創設し、頭部外傷についての教育、脳震盪の予防、研究に協力していくつもりです。ウェブサイトは、www.cte-hope.orgとのこと。

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